アイオーンの福音
閉館間際の博物館。誰もいないと言ってもおかしくないほどの静けさに僕は興奮した。独り占めしているんだと思ったその時、すべてを手に入れたかの感情が湧き上がってきた。剥製の動物たち、海洋生物の標本、人類の進化を記した年表。歴史的価値のある様々なものが一瞬にして、自分のものであるかのように思えた。過去と現在が同時に存在している感覚に陥る博物館は、僕にとっては大切な場所。
- 1 -
僕の部屋同然だった。
耳を澄ますと、何も聞こえないはずの館内の奥から、彼等の息遣いが聞こえてくるようだった。
今すぐに行きたい気持ちを抑えて、僕は最近見つけた隠れ場所に向かった。
あそこでしばらく待っていれば、夜の博物館は、本当に僕だけになる。怖さよりも、独り占めが出来る高揚感でいっぱいだった。
両親が出張すると知った時から立てていたこの独り占め計画を、僕は今まさに実行に移した。
- 2 -
警備員の見回りをかわし、展示室のシャッターが降りた音を確認する。独り占め計画は大成功だ。
暗くなった展示室を歩いて回る。暗がりでひっそりと物も言わない展示品たち。不思議と、これが本来の姿であるような気がする。
不意に、足元が揺らいだ。
慌てて踏み込んだ先はカーペットではなく、太古の海につながっていた。そう、かつてここは海だったのだ。さっきまでガラスの中だった生き物が、すいと泳いで消えていった。
- 3 -
カナダスピス、シファクティヌス、アンモナイト。
時間が彼らの息吹を衰えさせることはない。
柔らかで流線のような海は肌にほんのり暖かく、気持ちがよかった。
太古の海は博物館を浸食してしまうと、東京の街にまで食指を伸ばす。現実にはない記憶の海だ。ネオンに彩られ、車が沈む。信号機をアノマロカリスが横切っていく。
古代生物たちも、同じ月を見上げていたのだろうか。今夜はどことなく地球に近い三日月だった。
- 4 -
濃い蒼に沈む海の中を歩いていく。僕の吐く息が泡となって、博物館の天井へと消えていった。
すいと追い抜いていったピカイアにつられて窓越しの空を見上げれば、三日月の細い光の筋だけが、ひと気のない道路の真ん中に差し込んでいた。
ふとガラスケースを覗いてみれば、太古の海を閉じ込めたような石がひとつ、ぽつんと置き去りにされていた。
乳白色に映る透明な青い水。藻や月光の白い光。僕は思わず立ち止まって見惚れた。
- 5 -
じっと見つめると、石が僅かにとくとくと脈打っている。覗き込めば、豆粒ほどの薄桃と白の半透明な物体がくるりと丸まっていた。まだまだ魚のような形、大きな頭。
──胎児だ。
総てのものに守られた、か弱い存在。
だけど、ここに確かに命づく者。
目を閉じると僕は、ひたひたと波紋を広げる水になっていた。生命すべての誕生の地。伸びかけた爪の先までも、太古の生き物が身体をくねらす透明の青に染まりきっている。
- 6 -
海の何万種もの生き物達が水中を泳ぐ、東京タワーの先端にまで水嵩が上がり、さらに意識が青白く融解する。
幾万光線の時の雨、そのストロボに焚かれた僕の日常が、次々とぶっ壊れていく快感。
そして万物創生の物語は尚も逆行していく…。
星の生誕…太陽系に燃えた火の玉、激しい蒸気、冷却、蒼き静まり、生物の元素、繋がり、多様な進化。
石の記憶が断片的に脳内に入り込んでくる。
神秘的な脈動が夜の博物館に鳴り響く。
- 7 -
その時僕は声を聞いた。ヒトの言語ではない、けれど頭の中に直接入り込んできたそれの意味を僕ははっきり理解した。
あえて言うなれば「寿ぎ」「祝福」「生まれてきてくれてありがとう」──捕食者が、被食者が、分解者が、あらゆる命が、星の欠片が、逆行する歴史の目撃者たる僕に語りかける。
時は歌い光は赦し静寂は微笑む。だから涙は溢れるのだ。
仮想の海の中、僕の目から零れた滴が幾つか石の上に水たまりを作っていた。
- 8 -
夜の底で僕はひとり佇む。
足元に広がった涙の波紋は徐々に小さくなり、やがて元の硬い床へと戻っていった。
ガラスケースの石は沈黙し、窓から射す一筋の夜明けを優しく照り返している。
僕はもう一度目を閉じて、太古の歴史を飲み込んだ建物に耳を澄ませてみた。あの不思議な声はどこにも聞こえない。古代生物たちの息吹も消えている。
ただ、脳裏に刻まれた鮮やかな青色だけが、海と星と生命の秘密をわずかに宿していた。
- 完 -
作品情報
アイオーンの福音
#4447
- リレー期間
-
3年1ヶ月